父の死を乗り越えて

はじめまして、相談堂スタッフの中尾です。父が死んで、もう3年が過ぎました。
この文は、私が3年前に書いたものですが、皆様の参考になるかもしれないと思い、公開することを決めました。
がん患者さんの最期の参考例になるかもしれません。

「癌で亡くなった父の最期のストーリー」

私の父が亡くなったのは、奇しくも4年前の大腸がんの数時間にもわたる手術の日3月15日で、その日は手術後に、ゴルフボール大の癌組織を見せられ、その 癌細胞の異様さと、その後、「リンパにも転移してとりきれない。3年生存するかは難しいところでしょう。」と主治医から母、伯母と私に言われたことを思い 出します。

最初に中期の前立腺癌が発見されてから5年以上経ちましたが、昨年の9月までは体力が少し落ちていましたが、全く普通の人と同じように食べ、笑い、仕事や 旅行をして過ごせていました。然しながら、どうしても癌の痛みを怖がるために非麻薬性鎮痛剤、オプソやオキシコンチンを服用し、夜は眠れるように睡眠導入 剤 レンドルミンを多用するようになってきると、すこし精神活動も低下し、父は闘病記も書く気力が湧かないといっていました。
また食欲が落ちはじめました。それは癌という病に、気力が立ち向かえなくなってきたと思われます。

その後、リンパに移転した癌は徐々に進行し、腸を圧迫してきてました。秋に腸閉塞を2回起こし、そのため物が食べられなくなりストーマー(人工肛門)をつ けることになりました。 「これで腸閉塞の心配がなくなるから、また美味しいものを腹いっぱい食べれるようになって良かったね。」といっていましたし、こ の地区のストーマーの会にも入り、一緒にストーマーの仲間達と果物狩りにも行っていまたのですが、10月ぐらいで膀胱炎を何回も起こすようになってきて、 自己導尿しても尿が出なくなってきたのです。
主治医によると、どうも尿管、膀胱まで癌が浸潤し、圧迫しているのです。11月に仕方なく腎臓に管を通すことになりました。
身体にはストーマーの袋、肩から提げる鞄の中には腎臓につなげた2つの管を提げるようになってしまったのです。

父は気骨の入っている人なのでとっても辛かったに違いありません。癌で亡くなった父の最期のストーリー
しかし、「病院には入院せず、最後まで自宅で過ごす。」と言っていました。
家族と一緒に過ごしたい。母の手料理を食べて生きていたい。と言っていました。

 

お世話になった地元の行きたい場所に行きたいということなので、母も私も時間を見ていろいろ連れて行きました。
このころから片足がリンパ浮腫がはじまり、歩行困難になってきました。
足を揉んだら気持ちいいといっていましたが、このリンパ浮腫は手が打てない状況です。
このころから、在宅介護の方に大変お世話になるようになったのです。
介護の方には本当に心から感謝しています。
そのため正月は家族でもう最後になるかもしれないということで、湯布院に温泉に行くことになり、私たち子供夫婦2組、孫2人に囲まれ、足湯にも入れ、ゆっくりすごせたことと思います。
途中、父の旧友のところにも寄ることができ、旧友には最後の挨拶になったと思います。

癌で亡くなった父の最期のストーリー

歩行困難でしたが、在宅介護支援センターの方々や介護タクシーの方や母の献身、私ども家族の支えで病院帰りに、グルメの父のために近辺の美味しい店によく行っていました。
「このラーメンが食べたい。」
「この中華そばが美味しい」
「鰻を食べに行こう」
「ステーキを食べに行こう」
私も忙しいながらできるだけ日曜日は子供をつれて父に会いに行きました。父はいつも、孫に「もうだっこできない身体でごめんね。」といっていました。

子供も、じいちゃんとよく1年雨までは近所の温泉や、犬の散歩に連れて行ってもらっていたので「じいちゃん 大好き」ってよく言います。
1週間に一度は孫の顔はなるべく見せてあげたいと思っていました。
然しながら、病は無常にも進行し、足はリンパ浮腫でパンパンに腫れ、自力で立つことも困難になり、2月には車椅子の生活です。

それでも父は病院に入るとは言いませんでした。
自宅で家族と過ごしたいという気持ちが強く、母の手料理を少しでもいいから食べたかったに違いありません。近所の伯母(父の姉)も毎日のように心配してきてくれてました。

そして3月に入り、私が見てもとても辛そうで、本人も辛いとよく言っていました。
母は「私たちのために生きとって…」といっていましたし、私も「親父、なに情けないこといってるの」といっていましたが本人はとっても辛かったに違いありません。

3月12日に私が出張中でしたが、自分から「もう最後だ、入院する。」といって自分で入院しました。病院に行ってみると2日見ない間に、げっそり頬がこけ、顔色には生気が無く、食欲も全く無い状況です。

「おやじ2日見ない間にいったいどうしたん?」

母に聞くとかんしゃくを起こして「お前達の漢方は、もう付け焼刃じゃないか!」と怒って10日前に全く飲まなくなったそうです。もともと漢方とか粉薬が嫌いで、多く量を飲むのが嫌いとか、調子がいいとよく薬を飲み忘れる人間でした。楽観的な部分も多々ありました。

父は最期まで「自分の癌は治る。 母と私がなんとかしてくれる」と思っていたそうです。

癌という病は、私たちごく身内に医療関係者がいたとしても、その現実は伝えきれないものです。
入院させて、衰弱して物も食べれない父に、私は「親父!頼むから漢方飲んでくれ!」といって、ゼリーオブラートに包んでなんとか飲んでくれました。

息子の最後の頼みを聞いてくれたのでしょう。少し気分が良くなったようですが、所詮付け焼刃です。ここまで進んでしまったら、もう手がありません。

3月14日、もう最期の時間がやってきていると私たち家族は感じました。
父は、いつもお世話になっている在宅介護士のAさんを呼んできてくれといいました。
Aさんは休みですが病院に来てくれました。父はAさんをとっても信頼しています。
私どもが仕事で家にいない分、大変お世話になった方でした。
Aさんは、父がベッドでも過ごしやすいように身体を動かしてくれて楽になったようです。

父は胸に手を組んでAさんに「Aさんに会えて良かった、本当に助かった。」といい、Aさんと最期のお別れとなったのです。Aさんも悟ったのでしょう。泣いてくれました。
父も母がいなくなると淋しいからということで病室に泊まってくれといっていて、母もこの後、2日にわたって病院に泊り込み看病していました。

翌日は病院では結構ご飯を食べ、血圧も安定し、医師もあと数週間はもつと思います。
看護師さんからは「早く元気を出して、また家に帰ってね。病院は疲れた身体を安めに来るところよ」といって頂きました。

私は医師が言われたので、安心していたところ、病院の母から電話があり、すぐ来てとのことです。すぐに行ってみたら父は酸素マスクをはずしています。
母に「親父はどうしたのか?」と聞くと。
父は母に「もう酸素マスクも点滴も余計なことは一切するな」といったそうです。
父は尊厳死協会に入っています。

父が母と私に「お前達、俺は今日逝くから、みんなを集めてきてくれ。」と言いました。
私たちは、そこで悟りました。もう父を苦しめてはならない。
父の希望を叶えることが私たちにできることだと思い、至急、家族や身近にいる親族に来ていただきました。

みんなの顔をみると父は安心したのでしょう。弱弱しい笑顔でみんなに「来てくれてありがとう」と言いました。
一人ひとり固く父と手を握り締めて別れを言いました。
胸に麻薬性鎮痛剤のモルヒネのパッチを張られていたのでだんだん意識が弱くなってきました。
といいますか、父は、みんなが集まるまで意識をしっかり保ちたいという意識が合ったのだと思います。

その後、担当医との面談がありました。医師からは「胸に点滴のポートをつくると持つのだけど、本人が拒否しているから難しいですね。」と言われました。
「本人も私たち家族もそれは望みません。自然になるようにしてあげたいと思います。」と言って尊厳死を選ぶことを確認しました。

担当医は30代前半と若いですが、通院中は、患部の手当てをしてくれ、「中尾さんの顔を毎日見らないとさびしくなるね。」と言い、「中尾さん、日曜日でも 来院されるなら病院の裏に住んでいるのでいつでも僕でよかったら担当するからね。」と言ってくださり、非常に父に親切にしていただいていたため、父も信頼 を置いていました。

そして最期に来ていただき、「中尾さん、最期にお願いがある。もう付き合い長いから僕のお願いひとつ聞いて。酸素チューブだけをつけさせてよ。」と。
父はこくりと頷き、酸素チューブを鼻につけました。それで呼吸が楽になったのだと思います。

医師との信頼。これは患者にとって本当に大切な事だと思います。

そして父はだんだん意識が薄れてきだしはじめました。
しかし、そういう状況でも、耳は聞こえてることは知っていますので、私は父にいろいろ語りかけました。

ちょっと宗教的な話に近くなりますが、私はチベット仏教や、福島大の飯田史彦先生の「生きがいの創造」などを愛読していました。それによると

「人間は、やがて光の下に帰っていく存在であること。」
「迎えに来た光の方向にまっすぐ進むこと。」
「其の時は振り向いてはならないこと。」

父との楽しい思い出、父にありがとうという感謝の言葉、最期に父を誇りに思うということ、父の子供に生まれてよかったという言葉。
後の心配はいらないよ。家族を助けていくこと。
これらのことを、私は父に誓いました。

みんな泣いていました。そして夜に母を病室に残して、不安な夜を迎えました。
私は、なかなかその夜は寝付けず、何度も何度も目が覚めました。朝目覚めて真っ先に仏壇に参り、病院へ向かいました。

意識は無いですが、まだ父は生きていました。
麻薬が効いているので意識ははっきりしていません。しかし私は「ほっ」としました。
母に代わろうか?というと、2時に父の姉が交代できてくれるから、それまでいいということで、私は念のために葬儀屋に打ち合わせにいき、その後仕事に向かいました。

3時に母から電話が入り、「血圧が急激に下がったので病院に来て欲しい」とのこと。私はすぐさま病院に向かいましたが、病室に入ると残念ながら5分前に息が切れたと、看護師さんから聞かされました。

癌で亡くなった父の最期のストーリー

まことに残念です。
母も立ち会えませんでした。
立ち会えたのは、看護師さん1人だけでした。

看護師さんは息が切れる前、父の手をぐっと握ってくださったそうです。
父は、「ありがとう」と言ったそうです。
母が2時半までいた時は、心臓も血圧もまだ頑張っていたのですが、おそらく、母がいないと自分で分かってから、もう安心したのでしょう。

自分で逝くと決めたみたいです。死に様を見せたくなかったのかもしれません。
ほんの30分の間です。

父はまだ耳が聞こえていると思っていましたので、父にもう一度お礼の言葉を言いました。

「無事いってらっしゃい、心配はいらないよ」

尊厳死とは、自分で最期は自分らしく死に様を選び、逝くことです。
癌という病気との闘病生活がはじまってから5年、父も精一杯私たちのために生きてくれたし、私たちも父にできたと思います。

多分・・・私はそう思いたいです。

がんというものは答えはありません。

ただ、精一杯限られた時間を一緒に生きていくことだと思います。

薬剤師 中尾のりよし